生きにくさは「恥」の感情から生まれる
こんにちは。ヤトミックカフェ運営人の矢透泰文です。
年末に「恥(シェイム) 生きづらさの根っこにあるもの」という本を読みました。これで光が見えたぞ!というわけではないのですが、もしかすると自分の感覚は、これに当てはまるのではないか、とヒントをもらいましたので、本エントリーでシェアします。
Image by Anita S. from Pixabay
私の感じている「生きにくさ」
昨年は、自尊心を低く感じる→自信が低下する→仕事の結果が出ない、という負のループが続き、軽い抑うつ状態が夏から年末まで半年ほど続いてしまいました。
このブログでは何度も言及していますが、もともと私は、定期的な抑うつ状態や繰り返される強い不安感、基底にある低い自己肯定感があり、この生きにくさをなんとかしたい、と思いながら、一方で「こういう人間だから、努力をしても無駄だ」と思ってもいました。
メタ認知のために、つらい抑うつ状態に陥ったときには、自分の感覚や体感をなるべくメモるようにしますが、メモの中に「抑うつ状態になると、なぜか自分が周りから許されていないような、卑小な存在になった気がして、不安が高まる」と繰り返しあります。
この感覚は、実は子供の時からずっと感じているものです。単に「自信がない」というものとは違う、もう少し強烈な、存在そのものが許されていない、という体感で、これは何なのだろう、名前があるはずだ、とずっと考えていました。
恥の感情とはなにか
そんな中で昨年出会ったのが、前述した「恥(シェイム)…生きづらさの根っこにあるもの」という本です。
そもそも恥とは何でしょうか。「恥」は基本的な感情の一つとされていますが、その役割は、共同体を維持するためのものと考えられているそうです。
機能不全を起こしやすい感情のひとつが「恥」です。 軽いレベルの恥は健康的なもので、行動を律して規範やルールを守らせる働きをします。 たとえばサルも「恥」を感じます。それは、自分が属する群れのルールを間違えてしまったときです。 「あ、いけない。恥ずかしいことしちゃったよ」 こうした感情は、内面からわき起こり、次からは行動を改めることができます。 けれども恥の感情が強まると、他人へのひけめになったり、こんな自分はダメだと感じたりします。
このように、恥とは共同体を維持するのに必要な感情であるとされていますが、その感覚が、自分の存在そのものにまで及ぶと、自分の行為ではなく、「自分の存在そのもの」を恥じるようになってしまうといいます。
恥は理屈抜きの身体感覚として襲ってくるため、罪悪感よりもさらに強烈な行動規範になります。 恥を感じる対象は「特定の具体的な行動」にとどまらず、その行動をした「自分という存在そのもの」にも及びます。
(略)
自分は価値がない。 ダメな存在だ。 必要とされていない。 できそこないだ。 誰にも愛されない。 自分はおかしい。 こんなことになっているのは自分だけだ。 誰にも言えない。 本当の自分を知られてはいけない。 ……こうした、存在そのものにかかわる恥の感情を「中核的な恥(コア・シェイム)」といいます。
自分の存在そのものを恥じてしまうのだから、何をやっても、何を成し遂げても、その感覚は拭えないことになります。
自分の中に他人がいて、絶えず「自分がいかに外れた存在であり、恥じなければいけないのか」というアラートを出され続けている状態では、本当に自分らしく、のびのびと生きることがしにくいだろう、ということは容易に想像がつきます。私がずっと感じ続けていた感覚も、おそらくはこれだろうと考えました。
恥の影響から抜け出すには
本書の後半には、この「恥」という感情の影響から抜け出すためのヒントが載っています。
本書はテクニカルな本ではないので、ハウツーとしてではありませんが、「自分だけじゃない」「感情がそこにあるのを認める」「自分を応援する」「恥を手放す」「支えてくれる人を増やす」など、恥の影響から脱出するためのヒントがたくさん載っています。
すでに「生きにくさ」を感じ、カウンセリングなどに通っている人は、カウンセラーとの関係性のヒントになるかもしれません。
これは自然にわき起こるものではなく、何らかの状況下で「外から植えつけられた」ものです。つまり実は、あなた自身の恥ではありません。
このように、「自分自身を恥ずかしく思う気持ち」は、その特性のため、そとに表すこと自体が恐怖につながるため、一人で抱え込みがちです。でも、「中核的な恥」は、生まれつきのものではない、外からあるとき植えつけられたもので、本来は自分自身の恥ではありません。
まずそれを知り、自分一人で「恥」を抱えるのではなく、少しずつ、信じられる人に共有し、外に出していく。そのことで、恥の感覚から少しずつ自由になると言います。
恥は、人の間で生まれる感情です。その痛みから回復するのも、人との間でこそ可能になります。
まだまだ「恥」というものの理解は少ない
「恥の感情」について、この本を読んだあとで論文も検索してみましたが、数は多くなく、日本ではまだまだ「恥」という感情の有害な影響については、理解が広がっていない状況なのだ、と感じました。
日本は「恥の文化」と言われるように、「恥」はどこか奥ゆかしさの象徴として、「良きもの」として語られてきたような気がします。しかし、今回この本を読み、「恥=規範を外れることを正すための感情」をあまりにも内在化しすぎると、自分を自分で糾弾し続ける、というつらい状況に陥ることがわかりました。
そうなると、蛇が自分の尻尾を加えてぐるぐるするようなもので、どこにも出口がなくなります。
その出口を作るのは、自分ひとりではなく、人との信頼関係を築くことにあります。人間は関係性の中で生きる社会的な動物なのだと、あらためて感じています。
「恥」から抜け出すためのキーワードは、セルフコンパッションに通じるところがあると感じました。今後、その点も考えてみたいと思います。