「自己の再定義」を進めるための振り返り習慣について

こんにちは、ヤトミックカフェの運営者、矢透泰文です。

以前、「ミッドライフ・クライシスに陥ったら試したい「自己の再定義」」という記事を書きました。

以前の記事で自己の再定義の大切さを書いたものの、「じゃあどうするんだ?」という実行方法については、具体的に触れていませんでした。

今回は、私自身の実践経験が溜まってきたこともあり、あらためて「自分というものを再定義する」という抽象的な行為について、私はこうしている、ということを書いてみようと思います。

1. 「リフレクション」の習慣

リフレクションとは、経験を振り返り、意味づけしていくことです。

私自身は、1年半前からリフレクションの習慣を持つようになりました。といってもその際、特別な方法論を用いるわけではなく、

  1. 日々の気づきの記録
  2. 週次での振り返り
  3. 月次での振り返り

Notionというツールを用いて行っています。

Notionでのリフレクション記録

日々の記録は、何か特別なことを思いついたときや、気になったことを随時メモしているだけです。「あの人の振る舞いはすごく良いな」や「ちょっと凹んでしまったな」などの気づきです。

週次の振り返りでは、これらのメモを週単位で見直し、思ったことを書き、自分の傾向を見つけていきます。「あー、自分はこんなことを気にしているんだな」や「次の週はちょっと行動パターンを変えてみよう」といった週のテーマが明確になることがあります。

さらに、月次の振り返りは、週のテーマを月単位で見直し、より大きな視点で「自分のテーマ」が見えてくることがあります。

まあ当然、「なんのテーマも見つからなかった」とか「なんの進捗もなかった」というときもありますが、焦らずゆっくりです。

このような日次→週次→月次のリフレクションを続けることで、自己のテーマを客観的に捉え、それに対する自覚を深めることができます。

私が以前「自分をどうにかしたいなら、記録し、可視化し、認知せよ」という記事で紹介した「1行だけ日記」の手法もここに通じるものがあります。よければ過去の記事や本なども読んでみてください。

2. 「ジャーナリング」の習慣

ジャーナリングは「書く瞑想」とも言われ、近年注目されている行為です。思ったことをそのまま書く、という行為で、特に難しいことはありません。

「書く」という行為は、簡単ですが奥が深く、自己理解を深める上で重要です。

ジャーナリングは、人に見せるものではありません。なので、格好良く書こうとか、ちゃんと書こう、といった思考の制約は振り払うことができます。

「うーん」とか「ああああ」とか「何も思いつかねーな」とか、書いてもいいのです。ただ、書きながら自分と対話することは重要です。

「思う」と「書く」ことのあいだには、実は隔たりがあり、私たちは自分が何を考えているのか、正確に言葉にできることは多くありません。

私たちは「書く」ことで初めて自分の思考を形にし、自分が何を考えていたのか、に気づき、驚くことができます。そうして初めて、自分が何を考えるべきか、行動するべきか、に対して、自覚的になることができます。

などとエラソーに書いておきながら、私自身も定期的にジャーナリングをするようになったのは最近です。先のリフレクションと組み合わせると、ぼんやりと自分の考えていることやテーマが浮かび上がってくるような気がします。

ちなみに使用するツールは何でもよく、手書きでも、キーボードでも構いません。私はEvernoteを使用しています。

感情にゆらぐ人間だからこそ「深い振り返り」が必要

私自身は、恥ずかしながら感情に流されやすい人間です。もういい年になっても、ネガティブな感情(不安や恐怖、恥や怒り)に支配されることがあります。

感情は厄介で、一時のネガティブな感情をまるで「永遠」のように感じさせてしまいます。「もうだめだ」とか「俺はおしまいだ」といった考えがまるで「覆し難い真実」であるかのような感覚を抱いてしまい、ネガティブな感情に支配された望ましくない行動をしてしまうこともあります。

こうした「点」ばかりを繰り返していると、なかなか中長期の目線で「自分は何を望んでいるのか」とか「どう生きるべきか」といった深い視座で物事を考えることはできません。

今回紹介したリフレクションやジャーナリングはあくまで現在の私の実践なので、また変わっていくと思いますが、「自己の再定義」は、自分自身への深い理解(セルフアウェアネス)や、これまでの人生に対する意味づけ、といった「深くて重い」振り返り行為なのだと思います。

これを読んでいる皆様は、どんな実践をされているのでしょうか。機会があればどこかで共有いただければと思います。

-世界の片隅から(よもやま話)