3月11日に思うこと(2017年)

こんにちは。ヤトミックカフェ運営人の矢透泰文です。

今年も3月11日がやってきました。

2011年の東日本大震災から、今年で6年が経ちますが、「たった」6年のあいだに、変わってしまうことは多くあります。あのときの生々しい感覚は薄れていきますし、あのとき「自分に何ができるのか」と自問した日々と比較すると、日々の忙しさにかまけてなかなか思い出すことの少ない、ということに言い訳をする毎日、毎年であります。

また、昨年は熊本の震災などもありました。もちろん、今も大変な思いをされている方もたくさんいます。「震災」は過去のものではなく、現在進行系です。

だから、忘れないために書く、というメモリアルな記録もいいのですけれども、自分を「この世界の当事者」とするならば、いったい震災についてどういうことが言えるのか?ということを、できれば絞りだして書きたいです。

「怠け者」のそしりを免れないワタクシではありますが、いちおう息をして暮らしておりますので、わずかばかりの「当事者性」を持っていたいものだと思うのです。

昨年からでしょうか、本やテレビで、「被災地のタクシー運転手が霊と思しき存在と遭遇した」とか、「津波で亡くなったはずの家族が目の前に現れた」、「夢の中で家族と再会した」などの「霊現象」を紹介する情報を見聞きすることが多くなった気がしていました。

この話題の先がけは、NHKスペシャルの「シリーズ東日本大震災 亡き人との"再会" ~被災地 三度目の夏に~」だったように記憶しています。記憶の中では最近だったのですが、調べると2013年でした。

「霊現象」というと、これまでのメディアの取り上げられ方としては、少し突飛で、信じがたく、真面目に取り合えない話、というかそういったもので、根底には「ありえないこと」という認識があった上で、面白おかしく、あるいは演出されたものとして、取り上げる感じだったと思います。端的にいうと、NHKスペシャルが取り上げるようなジャンルではありませんでした。

しかし、震災にまつわる、「被災地で見聞きされた不思議な話」の取り上げられ方は、そういったいわばキワモノな話題、という扱いではなく、「大事なこと」「見過ごしてはいけないこと」として、扱われているような気がしました。それは、2017年の今、ますますその傾向は深まっているような気がします。

「これはどういうことだろう」「今までとは違うな」と気になりました。

親しい人が亡くなる、というのは、誰にとっても大きな衝撃を伴うものです。関係性が深いほど、何年たっても完全に忘れることはできないでしょう。それはどこまでも個人的な悲しみであり、一般化することはできません。

そんななか、特に2011年の大震災は、死者・行方不明者を含め、一万八千人余りの犠牲者を出した未曾有の災害です。ただ、トータルの数字として扱うのはあまりにも簡単ですけれども、一人ひとりの悲しみにフォーカスすれば、そこにはトータルの数字には還元できない「個別的な悲しみ」があります。災害における別れは「突然」で「理不尽」なもので、とても受け入れられるものではないと思います。一人ひとりの痛切な悲しみ、痛みを思うと、本当に気が遠くなるようです。

震災のような異常な事態の中で、「死」と向き合ってたくさん人々の心が深く傷ついているとき、社会もまた、傷ついているのだと思います。その中で、「霊現象」という精神的な現象が前面に出て、「大事なもの」として扱われるのは、当然のことのように思います。

それはなんというか、客観的な事実として論考・検証すべきもの、というよりも、どこまでも主観的な体験として、寄り添われるものであるべきだとおもうのです。

また、「不思議な体験」だけではなく、震災のような未曾有の災害で見過ごされがちな、一人ひとりの「死」や「悲しみ」の個別性に光を当てた、東北学院大学のゼミ生によるルポルタージュも、話題となりました。

震災で亡くなった子どもたちを「記憶し続ける」ための慰霊碑を建てる遺族のお話や、復興の名のもとに置き去りにされる被災者の「社会的疎外感」という、まさに悲しみの個別性に端を発する問題、震災当時の混乱の中でご遺体の火葬が追いつかず、止む無く一時的に土葬されたご遺体の掘り起こしの様子など、社会がどのように、一人ひとりの「死」に向き合ってきたか(いるのか)、という事例が丁寧に紹介されていきます。

これを読むと、一人一人の震災との関係性の中で、どのような「当事者性」もないがしろにされてはならないという気持ちになります。

あらためて、亡くなった方々のご冥福をお祈りいたします。

-世界の片隅から(よもやま話)