考えていないことを言語化するには

2021/05/16

こんにちは。ヤトミックカフェ運営人の矢透泰文です。

読書感想文が書けないと、先日子供が悩んでおりました。国語の授業で読書感想文を書くように言われたものの、何も思いつかなかったとのこと。

思えば、読書感想文を書く、というのはなかなかにハードルの高い作業だと思います。

読書感想文のいちばんの敵とは

人によって様々で、かつテクニック的なアドバイスもありますが、読書感想文を書くためにはざっと以下のような作業が必要とされるでしょう。

  1. どういう内容だったのかをまとめる(物語ならストーリー/その他ならテーマや主張)
  2. 全体的な感想をまとめる(全体を通して、ざっくりどんな感想を抱いたか。それはなぜか)
  3. (2)に基づき、特に印象に残ったところをピックアップする(記憶や印象に残っているところ)
  4. (3)にまつわる感想をまとめる(なぜそれが印象に残っているのか、本に対する全体的な感想につながるか)
  5. (4)までまとまったら感想文の構成を考える(入れる内容は1〜4。特に2を先にいうか、結論に持っていくか)
  6. ガシガシ書いて、推敲する。

とこんな具合だと思うのですが・・・ここでつまづきがちなのが(2)だと思います。

そもそも、読書感想文が苦手である、という場合にありがちなのが、実は書くことが苦手、というよりも「感想が特にない」「特に何も思わない」ということなのです。

あるいは「楽しかった」「面白かった」「悲しいと思った」という感想までは出てくるけれど、どうしてそう思うか?と聞くと答えが出てこない。

つまり、読書感想文の手強い敵は、「何も思わない」という書くことの手前にあることなのです。

何も考えが浮かんでこない、というとき

読書感想文のあるあるとして書いてきましたけれども、「何も思わない」ということの苦しさは、大人にだってあるのです。

「あなたはどう思う?」と聞かれたとき、頭が真っ白になった経験はないでしょうか?

私はあります。

「黙っていてはわからないです。あなたが考えていること言語化してください」

そう言い放たれ、私の発言を待たれている状態・・・考えるだけで吐き気のするシーンですが、こういう「言葉にできない」「何も考えられない」という感情振れ幅ゼロの状態のとき、必要なのは、果たしてなんなのでしょうか?

「考える」ことと「言葉にする」こと。人はその2つを行き来しながら、人や自分とのコミュニケーションを行っています。

ここで、こんなマトリクスを用意してみました。

今回話題にしたいのが、注目が、右下「言語化困難」および左下「無思考」です。この2つは、それぞれ、言語化できない理由が違います。

「言語化困難」の場合

これは以前のエントリー(「言語化」のための真のトレーニングとは何か)で書いた内容ですが、そもそも頭の中に考えがあるのであれば、それをどのように「引きずり出すか?」が、言語化のためには必要になります。

人は、自分の考えを100%理解できているわけではありません。言葉にして、外在化して初めて、自分の考えを理解できるのです。

読書感想文の例でいうと、「本を読んで確かに面白かったが、どう面白かったかは言葉にできない」という状態のとき。このときのトレーニングは、考えと言語の通り道を強化することです。

「面白かった」のであれば、どこが面白かったのか。ほかに自分が面白いと思っているもの、例えばゲームやアニメと比べると、どうなのか。

というようなことを、考えていく。少しずつ「自分にとって面白いって何か?」を考えて、連想ゲームで言葉を連ねていく。それらをノートに少しずつ書いていくと、だんだんそこに、自分の頭の中の一部が、映し出されて、整理されていきます。

前回のエントリーで取り上げたジャーナリングは、「頭の中にある抽象的な考え」を引きずり出す方向での言語化のトレーニングになります。

「無思考」(何も考えが思い浮かばない)場合

よりハードなのが、「何も考えが浮かばない」けれど「何か言わないといけない」というときです。

この領域は、そもそも必要がなければ「考えもしないし、ましてや言葉にもしない」という領域なので、言語化を要請されるのは、社会的な役割による要請である場合が多いでしょう。

読書感想文の例で言うと「1ミリも興味が持てないが、作文を書かなくてはいけない」という場合です(ただし読書感想文の場合は「なぜ自分が興味を持てないか」という理由をテーマにし、それを先程の方法で言語化するという裏技があります!)。

私の場合は、大変恥ずかしい話ですが、マネジメントロールを持っていたとき、メンバーの業務のことや、数字のこと、自分のチーム文化について発話を求められたとき、しばし頭が真っ白になりました。

そう。これは「自分にとって今まで考えたことがない」ことでありながら「社会の中での役割として考えなくてはいけない」ことだったのです。

この領域の言語化は困難を極めます。なぜかというと「考えていないことを言語化する」ということになるからです。

考えていないことを言葉にすることはできません。そういうときには、「頭の中にあるものを言葉にする」のではなく、「そもそも何を思うか」という「考え自体」を組み立てなくてはいけないのです。

「何も考えが思い浮かばない」ときは新しい学びのチャンス!?

「考え自体」を持っていないのだから、何も頭に思い浮かばず、言葉にできないのは当然です。頭が真っ白になり、冷や汗をかく・・・できれば経験したくないシーンです。

先程のマトリックスで言うと、左上のパターン(可もなく不可もないありきたりのことを言う)で、逃げる手もありますが、この冷や汗シーンを逆にとらえると、今まで興味もなかったことについて、新たに学び、自分なりの知見を築き上げていくチャンス、とも言えます。

最近「独学大全」が話題です。この分厚い本の中では、「独学」をするためのあらゆる技法が、様々なパターン別に網羅されています。一例を上げるだけでも

  • 志を立てる
  • 動機づけを高める
  • 時間を確保する
  • 知りたいことを発見する
  • どのように学ぶかを知る
  • わからないを克服する
  • 自分の独学法を生み出す

など、その網羅性の高さが伺えるかと思います。

「学び」に対して注目が集まっているのは、自分を成長させること、誰に強制されるわけでもなく自分のために学ぶ、ということが、本質的な楽しみにつながっている、と気づきが生まれているのかもしれません。

このように「無思考」の領域にあったものの言語化は、簡単には行きませんが、新しい学びにチャレンジする機会になり得ます。大変ながらも楽しいことと言えるかもしれません。

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