死者と生きる。 いとうせいこう「想像ラジオ」

Kindle Paperwhite
を買いました。巷では良い、良いとはさんざ聴いていましたが、買ってみてわかりました。良いですね。本を読むのが楽しくて仕方がない。読書欲がモリモリ盛り上がるといいますか。

しかし本題はkindleではなく、読んだ本のことなのですが。

いとうせいこう「想像ラジオ」です。
タイトルに惹かれて買ったのですが、内容も想像以上でした。それではお聴きください。

想像ラジオ
想像ラジオ

posted with amazlet at 13.06.14
いとう せいこう
河出書房新社
売り上げランキング: 2,709

ネタバレせずに読みたい方はここから先は読まないでおいてください。

「想像ラジオ」は、文字通り、想像力で放送されるラジオのことです。喋るのはDJアークという人物。なぜか高い木の上からしゃべっています。聴きたければ想像力でチューニングし、かける曲は「あなたの頭の片すみにある曲」。もし聴き逃した方は想像力で巻き戻してお聴きください。何でもありの想像ラジオです。

想ー像ーラジオー

第一章では、そんなジングルとともにDJアークの軽快なお喋りが続きます。続くのですが、、なぜ、彼が高い木の上で、動かない鳥を見ながら、そんな想像による放送をしているのか。その謎は、第二章から次第に明かされていきます。

・・・


実は、彼は先の震災の津波で亡くなった死者なのです。
「想像ラジオ」は、まだ「あの世」に行くことができない人たちに向けた放送なのです。

そう書くと、ちょっとセンチな作品に思われますか?

死者が喋るなんてファンタジーじゃん・・・と。



けれど、読み進むと、その理解もだんだんずれてきます。「想像ラジオ」を放送しているのは、DJアーク、本当に彼なのだろか。もしかしたら、生きている人間のそうであってほしいという「想像」なんじゃないか。そもそも、死んでいる人と生きている人の境ってなんなのか・・・そういったことがだんだんわからなくなってきます。

「生き残った人の思い出もまた、死者がいなければ成立しない。だって誰も亡くなっていなければ、あの人が今生きていればなあなんて思わないわけで。つまり生者と死者は持ちつ持たれつなんだよ。決して一方的な関係じゃない。どちらかだけがあるんじゃなくて、ふたつでひとつなんだ」(略)だから生きている僕は亡くなった君のことをしじゅう思いながら人生を送っていくし、亡くなっている君は生きている僕からの呼びかけをもとに存在して、僕を通して考える。そして一緒に未来を作る。死者を抱きしめるどころか、死者と生者が抱きしめあっていくんだ。(略)

死者と生者を隔てているのは何なのか?

この本を読んでいて思い出したのが、内田樹さんの「もう一度村上春樹にご用心」です。

もういちど 村上春樹にご用心
内田 樹
アルテスパブリッシング
売り上げランキング: 29,219

村上春樹についての論考を集めた本なのですが、「羊をめぐる冒険」について、死者を弔う物語であるという記述があります。

「鼠」は「僕」が正しく弔うことに失敗した死者である。
だから、彼はきちんと死に切ることができない。それゆえ、「鼠」は「僕」に向けてさまざまな不思議なシグナルを送ってくる。そのシグナルを受け止め、「鼠はいったい僕に何を言いたかったのか?」という問いを自らに向ける。自分にできる限りの努力を通じてそのメッセージを聴き取ろうとするとき、「正しい喪の儀礼」は執行される。

村上春樹の作品には、必ず「死者」が登場します。彼らは隔たったところにいる存在ではなく、ごく自然な隣人として存在するように描かれます。そのとき、生きている私達の世界と死んだ人間の世界は曖昧に混ざり合っています。

私たちは死者と生きていかなければいけない

それがどういうことなのか、うまく言えないですが(言えたら小説なんか書かれないし読まれませんが)、それを忘れている、考えないことについての警鐘は、痛いほど耳に響いてきます。

あと、映画「ガレキとラジオ」にも通じるかな、とふと思ったのですが、ラジオというメディアには、どこか「あの世」に通じる不確かなトンネルが開けるような気がしますね。

関連エントリー
確かにラジオのちからはある!〜映画「ガレキとラジオ」〜

-ラジオの話, 世界の片隅から(よもやま話)