自動生成された「ストーリー」に乗っ取られて、人生を台無しにしないために

こんにちは。ヤトミックカフェ運営人の矢透泰文です。

前回のエントリーから、「感情」について書いていますが、その流れで、先日、とても恥ずかしい行動をしてしまいましたので、告白いたします。

ある人に、飲みの席で、いや、飲みの席だけではなく、業務中にも、二度に渡って怒りをぶつけてしまったのです。

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その怒りというのは、「自分はないがしろにされている!許せない!」という「ひがみ」というか、そういう<被害者根性>から来るものでした。

公然の場で怒りを露わにしただけでも恥ずかしいのに、もっと恥ずかしかったのは、その怒りが、まったく事実に基づいていなかったこと・・・でした。

本当に私はないがしろにされていたのか?と問われれば、冷静に振り返って、ハッキリ「NO」なのです。仕事において私をないがしろにするメリットは一切ありませんし、むしろ、私が忙しくてパニックになっていたところ、いつも助けてもらっていました。

にも関わらず、なぜ私は、怒りを爆発させてしまったのです。本当に恥ずかしい話です。私はおそらく「自分は被害者である」というストーリーを自分の中で描いてしまっていたようなのです。

「事実とは異なる」ストーリーが生成される

30代も半ばになって恥ずかしい話、「自分は被害者である」とか「ないがしろにされている」という怒りを、私は今まで幾度となく抱いてきました。こんなことでよく生きてこられたな、と赤面するほどです。

今回、仕事の場で実際に爆発してしまったことで、この感情の爆発をなんとかしなくては・・・とようやく危機感を持ちました(遅い)。

思い返すと、今までも、「自分は被害者である」という怒りは、事実と乖離したところで生成されたストーリーでした。気が付かないうちに、私はいつも、勝手に自分が被害者であるストーリーを作り上げて、感情のスイッチをめちゃくちゃに入れていたのです。

なぜ私は、このような感情の乱高下を起こしてまで、そして仕事場の人間関係を危険に晒してまで、自分勝手なストーリーを作り上げてしまうのだろう・・・?と私は考えこんでしまいました。

なぜ人は、事実と異なる「ストーリー」をこしらえるのか

ちょうど最近読んでいた「立て直す力」という本に、このことのヒントが書いてありました。

この本は、人が成長するためのチャレンジをする上で、避けては通れない「失敗」や「挫折」から、どのように心を立て直すのか、について、書かれた本です。

「心を立て直す」というと簡単なテーマのように聞こえますが、さにあらず、単なるマニュアルではなく、自分の人生を「まるごと肯定し直す」だけのプロセスが、そこに必要とされるのでした。

この本には、人生の様々な局面で心を折られ、知らず知らずのうちにマイナスの感情にとらわれた人たちが登場します。何より、著者自身の体験から来る心の動きと気付きの描写は、本人だからこそ語れる生々しいもので、怒りとか、屈辱感とか、感情のマイナス面の動きも包み隠さず書いています。

その中で、中心となっているのが、マイナスの感情に向き合って、どのように主体的にストーリーを「書き直す」のか、についてです。

立ち直るための最初のステップは、まず傷ついた自分の感情に素直に向き合うことだと著者は言います。

なにかに失敗して気が動転するのは、自然な反応だ。もともと意識よりも先に身体が防衛反応を示す──逃げる、隠れる、凍りつく──ようにできているのだ。(略)すばやく自分のストーリーの主導権を握ろうとしないでグズグズしてしまうのは、自己防衛的になるからだ。

人は、何か自分にとってまずいことが起きたとき、自分の感情と向き合うことを避けます。自分の傷ついた感情から目を背けるとき、人は自己防衛的なストーリーをこしらえてしまうのだそうです。

確かに、何か大きなダメージを食らう出来事が起きたとき(失恋したとか、大きな契約を逃したとか・・・)、「どうせ俺なんて・・・」「だから俺は・・・」という思考になりがちです。本来なら、起こった出来事と、自分の価値には、相関関係はないはずなのに。

こういう辻褄合わせのストーリーは誰でも思いつく可能性がある。だから気にすることはない、とはならない。時には破滅へとつながる場合もあるからだ。わたしたちの自尊心をボロボロにして、人間関係をズタズタにしてしまうかもしれない。

もっとも危険な部類に入るのが、自分の存在価値を自分で危うくするようなストーリーだ。愛される価値、創造性、神性は決して損なわれるべきものではない。

にも関わらず、短絡的に、自分で自分を傷つけるストーリーをこしらえてしまうのは、短絡的な結論を出すほうが、自分の傷ついた感情に蓋をして、見なくて済むから。

傷ついた感情と向き合うことは、自分が何を恐れ、何を恥と思っているか、ときには失望と向き合わなければいけないため、根本的に怖いものなのだそうです。でも、そこから目をそらすと、本来の心の傷は適切に手当をされずに放置されるので、ますます深くなっていきます。

では、きちんと感情に向き合って、「自己防衛的なストーリー」を見抜き、「自分が主導権を握ったストーリー」に書き換えていくためには、何ができるでしょうか?

自分を縛る「自己防衛的なストーリー」を自覚し、書き換えていく

まず、重要なのが、このような「マイナスの感情」の発生から、目をそらさないことです。

感情を見つめるとは、自分の考え方と感情(生理機能も含め)とふるまいがつながっている事実に意識を向けることだ。
(略)
次に、その原因に意識を向けてみる。なにが起きているのか、その理由は? など次々に自分に問いかけてみる。ただし、こたえは出てこなくてもかまわない。なにか原因となる事実があるのだと理解する。

何だか自分が、感情的にまずいことになっている、と気がついたとき、注意を向けることが重要です。自分の中で何かマイナスの感情が働いて、それに支配されそうになっている、と気がつくこと。それが「怒り」なのか「悲しみ」なのか「嫉妬」なのか、あるいは名状しがたい何かが、お腹をズーンと重くしているとき、「何が起きているのか?」と自分に問いかけてみましょう。

次に、その感情から逃れるために自分がとっさにこしらえてしまう「自己防衛的なストーリー」に気がつくために有効なのが、「書く」ことだと、著者はいいます。

ストーリーの正体を見抜いてそこから学ぶために、創造力という強力なツールを使おう。自分のストーリーを文字にして書いてみるのは、最強の手段だ。とくに凝る必要はない。アン・ラモット流にいえば「第一稿は子どもが書く原稿」みたいに書く。
(略)
流れるような文章はいらない。ポストイットに書き留めた言葉、箇条書きのリストでもじゅうぶん役に立つ。とにかく、書く。めざすのは健康な心で生きること。だからありのままの自分を出す。

日記でも、広告チラシの裏でも、パソコンのメモ帳でも、スケッチブックでも、なんでも良いので、とにかく書きましょう。人に見せるものではないので、支離滅裂で構いません。どんどん頭に思い浮かぶままに書いていきます。

著者によると、まず書くだけでも、心を鎮める効果があるとのことなので、いったん感情が落ち着くまで、何日でも、一日10〜20分でいいので、書き続けることが良いそうです。

そして書き終えたら、十分に時間をかけて、そこに表れる自分の気持ちを見つめ、ストーリーを整理整頓していきます。自分が何を恐れ、何を感じていたのかを理解する。そして、自分のストーリーを正していく勇気を持つ。

立て直すプロセスがめざすのは、見て見ぬふりをするのではなく、結末を自分で決めること。現在のストーリーを理解し、真実と思い込みに選り分けて、いま自分にどんなことが起きているのか納得すること。結末を決めるのは自分だ。

この本には、さらにここから、主体的なストーリーを組み立てていく「心の旅」について書いていますので、興味があれば、読んでみてください。

「書く」ことをさらに深めたい方に

前回のエントリーで私は、感情は暴君であり、理性を振り回す、と書きました。私の場合、感情を自動運転にしておくと、今回のような大失敗をしてしまうことがわかりました。今後は、ちょっとの変化でも(特にマイナスの変化は)見逃さずにおこう、と決めました。

今回は「自分の作り出したストーリー」を自覚し、それを主体的なものに書き換えていく作業として、「書く」という作業をご紹介しました。まず支離滅裂でもいいので、自分の心に忠実にどんどん書いていく、という手法でしたが、これをさらに「物語を書く」ことにまで落とし込むルートがあります。

今回ご紹介した「立て直す力」と合わせておすすめしたいのが、「スクリプトドクターの脚本教室・初級篇」です。

この本には、自分が無自覚に持っているストーリーを、いかに自覚し、主体的に書き換えていくか、について、脚本の基本的な考え方とともに、書いてあります。

この本も単なるマニュアルにあらず。心理カウンセラーの資格も持っている三宅隆太監督の真骨頂。なかなかにすごい本なので、このエントリーが響いた方は、ぜひ一読をおすすめいたします。

いやー、30代なかばにして、人生の宿題が多いなぁ。。

-世界の片隅から(よもやま話)