未熟さと弱さの致命的さ


「R25」に内田樹先生のお話が
載っていたので興味深く読んだ。
その中で先生は
「未熟さ」について語っていた。

今の人は自分のことを“未熟”だとは
思っていません。
(略)
自分に足りないところを全部挙げられるんだけど、
未熟さとはそんなことじゃないんです。
自分に何かが足りないけれど、何が足りないのか
わからないこと

(R25より引用)

僕は社会人になって、もう5年が
たとうとしているが、いまだに
自分の未熟さに足を引っ張られている。

このもどかしい感覚は、
なんというか・・・アカンのである。

俺はどうもアカンなー、ダメだなー。
と思う。
こんなもどかしさを抱いている人は
他にはいないかもしれない。

ともかく、未熟さというのは
内田先生が仰っている通り、
致命的なものなのである。

答えのない現実の世界において
(仕事でも、不意の事態でも)
自分の判断がとっさにできなければ
すぐさま、死、だ。

死とは比喩の場合もあるし、
そのままのこともある。

死を回避するためには誰かに守って
もらうしかない。
それはつまり子供だということだ。

*      *       *

克服するべき未熟さのいっぽうで、
どうにもならない弱さもある。

昨年の10月、僕ははじめて裁判を
傍聴した。

そこには、痴漢事件を起こして
起訴された人が立っていた。

あるいは、
酒を飲んで暴れてしまった人もいた。
起訴状で読み上げられるのは
絵に描いたような転落人生だった。

でもどちらの法廷でも、
僕は被告人のことを他人事とは
思えなかった。
彼らに致命的な欠陥があるわけじゃない。
道をあやまったのだ。

あやまった道に行ってしまったのも、
彼ら自身のせいではなく、
自分ではどうにもならない、例えば
不運が重なったり
そういうことだったかもしれない。

そういう不条理に巻き込まれることを
人間の弱さというのだろう。
僕の中にもある。

いつか不条理に引きずり込まれる、
そういうこともある。

*      *       *

未熟さと弱さと、致命的なものが
歳を取るにつれて、どんどん
大きくなっている。

お正月の深夜に見た立川談志の
ドキュメンタリーを見て、
狂気を抱え込みながら生きている
すごみを感じた。

そういう、致命的なものを
全てを呑み込んだところで
ようやっと生きているのが
本当のことなのかな、という気が
最近している。

むむむ。