鎮静剤としての本(2)|「散歩のとき何か食べたくなって」
「鎮静剤としての本」とは、気分が沈んだときや憂鬱なとき、少し気分を落ち着かせてくれる、「まるで鎮静剤のような」本を紹介するシリーズです。
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新潮社
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池波正太郎のエッセイ「散歩のとき何か食べたくなって」を
気分を落ち着かせるためにむさぼり読む。
かなりいい。
読んでいて気持ちがいい。ページをめくる手が止まらない。
この本には、池波正太郎が愛する店や街についての19篇が、
魅力的な筆致で描かれている。
当日。映画の試写の帰りに[はやし]へ出かけた。
午後ならば、いつでもよいということだったので、午後三時半にしてもらった。この時間なら、他の常客へ迷惑もかかるまいと思ったからだ。
(略)
あるじがあらわれ、仕度にかかるうち、先ず、清酒を頼む。そこへ、いきなり生の車海老が一尾出て来る。これは、まぎれもない今日の材料のうちの[頭領]の鮮度を、客の舌にたしかめさせようという自信から出たものだろう。
(室町・はやし)
この本が出版されたのが1981年(連載は76年〜77年)。
池波正太郎が亡くなったのが1990年だから、ほぼ晩年に出た本、
ということになる。
私が生まれ育った東京は、あの[東京オリムピック]以来、人が住む都市ではなくなってしまい、高度成長なぞという、泥くさくて人を小莫迦にしたようなフレーズをかかげての、政治家と役人による物心両面の破壊工作が狂暴に急速に進行し始めたので、
(これは今に、東京では、水も空気も人なみに摂ることができなくなるのではないだろうか?)
と、おもいはじめたことがある。
(近江・招福楼)
本書を貫くのは、このような池波正太郎の「怒り」だ。
戦後から「古くからの良きものを破壊してきた」この国への
どうしようもない怒りが通奏低音で流れている。
しかし、ただ「怒りが描かれている」というだけでは、
「うつ的気分の鎮静剤としての本」には成り得ない。
そこには池波正太郎の文章の凄みがある。
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何かを好きになるということは、そこに含まれる「物語」を
愛するようになる、ということだ。
例えば音楽。音楽ファンは一曲を聴きながら、その曲にまつわる歴史や
今までその曲を歌ってきた歌手など、多くの情報を背後に見ている。
目の前の対象そのものだけではなく、その背後にある物語が
透けて見えるようになると、ますます面白く、好きになる。
「散歩のとき何か食べたくなって」に描かれているのは
そんな「物語」ではないだろうか。
実際の店や街を舞台にした短文ながら、その背後には、大量の情報が
織り込まれているのだ。
それはどんな物語かといえば、
池波正太郎という作家の人生の歴史であり、愛する店の歴史であり
「失われてしまった良き日本」のかつてあった姿である。
[松鮨]のあるじ・吉川松次郎の美意識が、どのようなものであるかは、小さいがしかし文句なしに完璧な店内へ足を踏み入れただけで、たちまちにわかる。
(略)
いつだったか、わたしといっしょになった常客のひとりが、
「松つぁんは、いのちがけで、鮨をにぎっとるからねえ」
しみじみと、私にささやいたことがある。
にぎるときの、包丁をつかうときのあるじの、神経の張りつめた顔は美しい。
(三条木屋町・松鮨)
しかも、池波正太郎はその巧みな文章力によって、
無知蒙昧な私にもその物語の魅力がイチから理解できるように
決して多くない紙数で、情報を組み立てて語ってくれる。
その手腕には本当に舌を巻く。
そして舌を巻きながら、私はこの本のページをめくり
食べ物の描写に舌なめずりをし、がつがつと読む。
まったくその読み味は
「こたえられない・・・」
のである。