「自己肯定感を高めること」はコンプレックスビジネス化していないか
こんにちは。ヤトミックカフェ運営人の矢透泰文です。
2020年は「HSP」に関する話題が多く聞かれました。かくいう私も2019年頃にセルフチェックをしたところHSPに当てはまりそうでした。ただHSPは病気ではなく、そういう性質であるため、「内向型」である私としては「やっぱりなー」という感じで、特に意外ではありませんでした(ということでヤトミックカフェにもほとんど記事を書きませんでした)。
むしろこの「HSP」の大ブーム感に違和感がありました。というのも、この「HSP」の流行は、少し前から続いている「自己肯定感」ブームと関連するところがあると私は見ていて、そもそも私はこの「自己肯定感」ブームに対する違和感を抱いていたからです。
自己肯定感ブームとは
自己肯定感を上げよう、とよく言われます。記憶している限りでは、自己肯定感という文脈が話題に上がるようになってきたのが2018年終わり〜2019年の始まりごろでした(その頃の私の日記に「自己肯定感」というキーワードが出てきはじめる)。
今さら書くまでもないでしょうが「自己肯定感」とは読んで字のごとく、「自分を肯定すること」です。自分のポジティブな面だけでなく、ネガティブな側面も含めて肯定することで、「単なる自信」ではなく「自分という存在そのものに対してOKを出せる感じ」を指します。
自分をまるごとOKしているので、失敗もダメージにならず、いろいろなことに積極的にチャレンジでき、幸せを感じやすい、とされています。
対し「自己肯定感」が低いとどうなるか、ということもセットで書かれます。いわく、自己肯定感が低いと思考がネガティブになり、自分を大切にできないため体は不健康になり、対人関係に自信が持てないため人間関係はいつもうまく行かず、チャレンジに積極的になれないため仕事もうまく行かず、幸せを感じられないので不幸になっていく・・・というものです。
ひどい。ひどすぎる(泣)。
このように、自己肯定感について書かれるときは、どちらかというと自己肯定感が低いときの弊害のほうが多く語られ「だから自己肯定感を上げましょう」という結論に落ち着きがちです。
「この脅迫めいた感じ」「最後にメソッドを案内されがち」このコンボが世間にあふれた状態を「自己肯定感ブーム」と私は呼んでおります。
自己肯定感ブームの嫌な感じ
「自己肯定感を上げるためのメソッド」の語られ方は、だいたいコンプレックスビジネス商材の売り方と通底しています。
コンプレックスビジネスとは、人のコンプレックスに働きかけ、その解消を図るための一大市場です。美容、薄毛などがその最たるものですが、私は、英語学習などもその範ちゅうに入ると思っております。
ことわっておきますと、私はコンプレックスビジネス自体は嫌いではありません。そこでは常に新しいメソッドが開発され、(きちんと行動しさえすれば)本当にコンプレックスを解消できるような優良な方法もたくさんあり、むしろ大好物です。
ただ、一歩間違ったり、「売ろう」という意識が先走りすぎると、コンプレックスビジネス商材は人を傷つけるものになります。コンプレックスがいかに良くないかが語られ、一刻も早く解消しないとあなた自身の価値が下がります、というメッセージを発信することで、商品を売ろうとします。
私が「自己肯定感ブーム」に嫌な感じを抱くのは、このコンプレックスビジネスの負の側面が感じられるからかもしれません。
1つは、前述したように、「脅迫」と「メソッド」がセットで語られる感じ、です。
メンタルの不調や、感情のバランスが取れずに苦しんでいる人に対して、まずはじめに脅迫をする。
「あなたが苦しんでいるのは自己肯定感が低いからだ」「自己肯定感が低いままだと大変なことになる」「自己肯定感が持てないのは育った環境に原因がある」などの脅迫めいた話を行います。
そして、人が不安になったところで、「そこで、この自己肯定感を上げるためのメソッドがあるよ」という流れに持っていく。
この「いちど脅迫するような感じ」は、商品を買わせるために、人の弱みにつけ込むようで、好きではない。特に「自己肯定感」というメンタル不調に直結する商材に対してその語り方をすることに対する配慮が感じられない。
結局、自己肯定感ってなんなんだ
で、今回なぜこんな暴論を書いたかと言うと「これまでいろいろやったけど、結局あまり自己肯定感が上がった感じがしなかった」からです。
いろいろ試したメソッドが悪いわけじゃないのかもしれない。自分のやり方とか、習慣化していないのが悪いのかもしれない。
でも「自己肯定感」は目に見えるスキルじゃないし、自分自身の感じ方でしかないので、測定ができない。進歩しているのか、していないのか、を誰かに判定してもらうこともできない。常にいま、この瞬間の感覚しかない。
そんなあやふやなものを、簡単に「上げられます」などというのは、やっぱり無責任か、やるとしてもよほど慎重にしないといけないんじゃないか。私はそんなふうに思うのです。
メンタルの不調をなしている「自分自身の感じ方」を変えるのは、そんなに簡単じゃない。
簡単じゃないというか、よくわからない。
「自己肯定」できている人にとっては空気を吸うように当たり前で、「自己肯定」できていない人にとっては、さっぱりわからない、そんなものなんじゃないか。
つまり結局のところ「自己肯定感」なるものを上げられなくて苦しんでいる人に必要なのはメソッドではなく、自己を肯定できているという「体感のヒント」なんじゃないか。
自転車に乗れない人に必要なのは「自転車を漕ぐとはどういうことか」という、目指すべき感覚の手がかりになる「体感のヒント」であって、自転車にのるためのメソッドそのものではない。
体感がわずかでもつかめれば、光明になるのかもしれないけれど、それがつかめないと、メソッドにばかりお金を払うことになる。「自己肯定感ブーム」に感じるのは、脅迫と体感につながらない人参をぶら下げられている感じ、です。