「自分に厳しく、人にやさしく」は成り立つか
こんにちは、ヤトミックカフェの運営者、矢透泰文です。
自分に厳しく、人にやさしくは成り立つ?
私たちはしばしば、「自分に厳しく、人にやさしく」という言葉を耳にします。それはどこか「美徳」としての響きを持っています。
私は長らく「自分に厳しい」人生を送ってきました。同時に、人には寛容な、優しい人間であろうとしてきて、そして、それは可能だと思ってきました。
しかし、2023年に、久々にマネジメントの役割につくことになったのですが、「自分に厳しく、人にやさしく」をやろうとした私は、壁に突き当たってしまいました。
マネジメントがうまくいかない
過去、私はマネジメントの役割についていたことがあったのですが、いろいろな経緯でうまくいかず、プレイヤーに戻りました。この経験は私の中で「挫折」としてカテゴライズされていて、いつかまた再挑戦し、うまくいかなかった原因をもう一度考えたいと思っていました。
そして2023年にそのチャンスをいただくことになったのですが・・・やはりまた、昔と同じように、うまくいかなくなってしまいました。
マネジメントにはもちろん、求められるスキルや知識があります。それを身につけるのは大事なのですが、私が突き当たったのは主に「リーダーシップ」の部分、つまり自分の考えを他者に開き、そしてチームをリードしていくことにおいてでした。
自分の考えを他者に開く。
書けば一言ですが、私にとっては難易度が非常に高いことでした。
まず、自分の考えが出てこないのです。「自分はどんな社会を目指し、どんなチームを作りたいのか」、ということが出てこない。そして、やっと絞り出した考えをメンバーに開示するのですが、メンバーからの声が「非難」としか受け入れられず、メンバーの声をどう扱っていいのか、どう振る舞えばいいのか、わからなくなりました。一時期はメンバーともギクシャクしてしまい・・・つらい時期がありました。
これは、自分や他者との関係を健全に築けていないことからきている、と一年をかけてようやく構造が理解できてきました。
自分に厳しく、人にやさしくは両立しない
今まで「自分に厳しく、人にやさしく」は両立すると思ってきました。自分と他者は、当然ですが違う人間です。自分は自分であり、他者は他者です。なので、人と自分に違う物差しを当てることは、一見、できそうに思えます。
しかし、自分を受け入れられない人が、他者を受け入れることは、できないのではないか?と感じるようになりました。
「自分に厳しい」とは自分をいじめる行為
私の場合の「自分に厳しい」とは、「高い基準(誰にもクリアできない完璧さ)を持ってきて、それと比べて自分をジャッジしている」という行為です。当然、そんなものはいつまで経ってもクリアできません。
さらに私の場合、高い基準に至っていない自分自身を、他者には言えない言葉で罵倒する、というところまでがセットでした。人から見れば、自分で自分をいじめているようにしか見えません。
この「高い基準」は、自分で決めた基準ではありません。おそらく、人生のどこかで外から持ち込まれ、刷り込まれたものでしょう。しかしいつしかそれを内面化し、自分で自分に求める基準になってしまったのです。「この基準が満たせないとダメ」「これができない自分には価値がない」・・・。自分で求めたわけではないのに、内面化してしまっているから、引き剥がせない。だから苦しいのです。
自分に自信が持てないから「責任」を持とうとしない
こうした「自分に厳しい人」つまり、「不条理な完璧さに対して自分が足りていないことを、自分自身に罵倒する」人は、悲しいことに物事に対して責任を取ることができません。
責任を持つとは「自分のことを自分で決める」ことから始まります。そうして自分にできることを少しずつ、広げていくのです。自分のことを自分で決めるためには、「自分はできる」という自信と励まし、失敗したときにはなぐさめが必要です。
「自分に厳しい」人(=私)は、結局のところ、自分を信頼していないために、自分で自分にGOが出せません。自分で物事を決めない。つまり、責任を持とうとしないのです。
弁解するわけではありませんが、「自分に厳しい人」は「自分は能力がないから、責任を持てない。責任を持てないのに、責任をとろうとするなんて不誠実だ」という感覚を持ってしまっていて、自分なりに誠実にやっているつもりなのです。
しかし人から見れば、能力が低かろうとなんだろうと、責任を持つ、少なくとも、自分で決める、とか、自分の決定に対して責任を持たないのは、無責任にしかなりません。この感覚・行動のズレが、リーダーという立場においては、役割が果たせない致命的な原因になってしまうのです。
「自分に不当に厳しい」ことは
自分で目標・ありたい姿を決め、それに向かって努力し、歩もうとすれば「自分に厳しい」ことは美しいことになります。
しかし「不条理に完璧な基準」を自分に当てはめ、自分をいじめることは、まったく美しくないし、自分が可哀想だし、無意味です。でも実際に、こうした「無意味な厳しさ」を内面化して、苦しんでいる人は、私以外にもたくさんいるようなのです。
場所を変えて詳しく書きたいと思いますが、ポッドキャスト番組「となりの雑談」に出会えたことが、自分の問題を客観的に理解することの助けになりました。
2023年はいろいろありましたが、マネジメントの役割に再び復帰し、こうしたリーダーシップの問題に取り組めて、そして自分のメンタルの課題に気づけたことは、大いに幸運なことでした。
UnsplashのMax Harlynkingが撮影した写真