ぶぶんとぜんたい
ときどき、
「この人はどうして叱るときに、得意満面になるのだ」
と思うことがある。
「常識で考えればわかるだろう!」
「普通、こうはしないよね?」
「あり得ない。こんな考え方はおかしい」
・・・ぐったり。
仕事をする上でのルールを、何とかこちらに
伝えようという、誠実さを感じる叱り方も
もちろんあるのだが、
人を叱ることに、目をギラギラさせて
自分を優位に立たせているような人がいる。
そんな人は、おそらく
こんなことを無意識に思っている。
「俺は、『正しい答え』を知っている。
それを知らないのは良くないことだ。
だから、教えてやっている。」
人を叱るときの得意満面さは、
自分は、確かで大きなものに寄って立っている
という自負、安心感から来ている。
それは例えば、
「絶対に正しいやり方」
というようなものだ。
そんなものはあり得ないのだが
どうも
「自分はそれを知っている。身につけている」
と思っている人が、
人を得意満面に叱る人種の中に存在している。
・・・
世の中には唯一無二の「正しい答え」
というものがあって
そこから外れているのは悪いことで、
そんな間違いをひとつひとつ、つぶしていけば
いつか「間違いのない」人間になれる。
つまり
正しい「ぶぶん」を足していけば
いつか、正しい「ぜんたい」に至る・・・。
そんな考え方を抱いているらしい。
・・・
ぶぶんを集めれば、ぜんたいになる
などという考え方は、どうも嘘臭い。
どんなシチュエーションで、どんな組織に
どんな人間関係にあてはめてみたって、
僕は疑わしいと思う。
ぶぶんとぜんたいは、根本的に違う。
枝をいくら集めても、木にはならない。
当たり前のことのように思えるが
状況と言葉を変えてしまうと、
そこらへんのことが、一気にわかりにくくなる。
ぶぶんは、ぜんたいにはならない。
ぶぶんは、あくまで、ぶぶんであり、
ぶぶんの、ほんぶんは、多様性である。
いろいろな、ぶぶんがあるが、
これだけがぜったい、ということはない。
・・・
ある限られた範囲の中での「正しさ」を
「世界の真理のひとかけら」を扱うように
ふりかざすような人を、
あまり信用してはいけない、と僕は思う。
何より自分だ。
自分の常識に照らしあわせて
人を得意満面に叱ったり、陰口を叩いていないか、
「俺は正しい答えを知っている」などと
勘違いを起こしていないか。
厳重に見ていよう。