空気読めよ!の圧力
「最近の若者は
空気が読めないやつ嫌いでしょ。」
テレビで、
誰かがそう言っているのを聞いた。
なんだか
空気が読める/読めない
という話題を
よく聞くようになったと思う。
「空気が読める」というのは
その場の雰囲気や、そこに流れている
暗黙のルール、そういったものを
汲み取る能力ということなのだろうか。
確かに、そういう能力は重要だろう。
まあ、ないよりはあったほうが良い。
でも、なんだかねー
「空気読めよ!」
というその圧力が苦手なんだよなあ。
一言で言えば、
和を乱すな!
ということでしょう?
もちろん、周囲の人たちと
調和を保つ、協力していくことは
必要だと思いますよ。
ただ
『空気読めよ!』
という圧力は、使い方を間違えると
トンでもない方向に行ってしまう。
耐震偽装問題とか、
ああいう組織的な問題があって。
報道を見ると
「あんな悪事に協力するなんて・・・」
と思う。
でも実際に内部にいて、
『空気読めよ!』
というかけごえのもと、
悪事に協力することが良いことだ、
という圧力をかけられていたら、
たとえ悪いことであっても、
協力しないことに、引け目を感じる
ようにならないだろうか??
「場」の暴力というのがある。
外から見たら
「なんでそんなことが・・・?」
と思われることが、
その場では当たり前に行われていて、
誰もそのことを疑っていない。
いじめというのは、
その典型だと思う。
いじめに限らず
外には通用しない
『その場のトンデモルール』も
「空気読めよ!」
の圧力で、
守るべきルールになってしまう。
怖いことじゃありませんか??
(連合赤軍の問題も、ここらへんが
絡んでいるような気がするんだ)
だから僕は
「空気読める人っていいよねー」
という最近の風潮が苦手なのだ。
「空気読めよ!」
というかけごえには、
いちど疑ってかからんといかんと思うのよね。