しがみつくための空洞
漫画家の安野モヨコさんのインタビューを読んだ。
安野さんの『働きマン』というマンガが人気だ。
雑誌の編集者として働く女性が主人公である。
働くこと、仕事がテーマになっていて、
面白いのだけれど、何というか読んでいて
身につまされることが多くて、ときどき自己嫌悪に陥る。
とにかく、それだけ『身体に来る』マンガだ。
『身体に来る』作品は素晴らしいと思う。
観たあとで具合が悪くなる映画なんか最高だ。
お金を払った価値があると感じる。
・・・・・
そんな変態的芸術嗜好は、今はどうでもいい。
安野さんのインタビューを読んで、感動したところは
『絵を描く』ということ以外に、自分には何もない。
とお考えになっているというところだ。
こういう考え、感覚は、よく言われることで、
ついつい見過ごしがちになる。
何となしに、
『絵を描く』という部分に目が行きがちだ。
つまり、
安野さんには『絵を描く』才能があっていいな、
と、読んでいる人は思うんじゃないだろうか。
夢中になるものがあっていいな、
好きなものがあっていいな、と。
ところが、本当に重要なのは
『絵を描くこと』の部分ではなく、
『他には何もない』
というところなのではないだろうか?
自分には何もない。
そう感じることって、すごいことだと思う。
他に何もないがゆえに、絵を描くしかない。
のだ。
もっと言おうか。
絵を描かないと、死んでしまう。
のだ。
大げさな、と思うかもしれないけれど、
仕事として選ぶということは、それを自分の生活の糧に
することを選んだ、ということだ。
絵で飯を喰っていく。
ということを選択したということだ。
一つのこと、職業とか進路を選択することは、
すなわち
他の選択肢、可能性を捨てることだ。
怖いことだ。
『絵を描いて生きていく』という選択。
そういう選択、覚悟をするときは、もしかしたら
才能の有無さえ、関係ないかもしれない。
それしかない、と思えば、しがみつくしかないからだ。
しがみつく覚悟があるかないか、ということなんじゃないか。
選んだものにしがみつけるかどうかは、
「自分には何もない」という空洞を、持てるかどうか、
そこが問われている気がする。
アレもコレも、と目をあちこちに向けているうちは、
結局はどこにも行けないのかも知れない。