矢透泰文(ヤトミックカフェ主催者)はある日思ったのだ。
全力で書いて、きちんとコラムしてみたい。
全力で書いて、失笑を買ってしまうのもいい。

タイトルに特に意味はない。
意味がないことにも意味がない。
だから何だっていうんだ。

心を痛めても無意味


友人が、仕事先でつらい目に遭っている。
人間関係で、悩んでいるのだそうだ。

その現状を聞き、また、友人の辛そうな顔を
見るたびに、
僕は心を痛めることになる。

あるいは、豪雪で大変なことになっている
地域のニュースを見る。
雪の重みで屋根が潰れたり、交通が寸断されたり、
そうした映像を見るたび、
僕は心を痛めることになる。

しかし当然、僕が心を痛めたところで、
現状は、当然、変わらない。

当たり前の話である。


よく考えてみると、
心を痛める、
という現象には、いくつかの心の動きがある。

・彼らと比較して幸福な境遇にいる自分を許して欲しい
・何も出来ない自分は無力だ
・彼らは気の毒だが自分は安心でよかった


それらは、つまり、
彼らと比較して自分が幸福であることを確かめる、
という行為に他ならないと思う。

つまらないし、無意味だ。
何も出来ないなら、関わらない方が良いのではないか。

僕が心を痛めたところで友人の境遇が
好転するわけではないし、
豪雪地域で雪が消えたりするわけじゃない。

僕が心を痛めて、自分に安心しているあいだに、
ことはどんどん進んでいる。

今まで僕は無意識に、人と自分を比較してきた。
もうやめなくてはいけないと思う。

問題は自分の『外』で起こっている。

自分には解決不能な問題だ、
ということをきちんと認識することは、
決して問題から逃げることを意味するのではないと思う。


あなたは、自分には解決不能な問題に
誰かが直面しているとき、
どのように考え、行動するだろうか。あるいは
行動しないだろうか。