伊田さんと 「研究者」 について。
伊田さんは、進路を選ぶにあたって、就職ではなく
学問をつづける道を選択しました。
いわゆる 「社会人」 と、学問を志した人では
社会との関わりかたはどう異なるのでしょうか?
第5回:言葉が、ない
伊田 |
「利益を生まないものに、 どうしてお金をかけるんだ」 っていう気持ちも、わからなくはないけど 利益を生むだけが社会じゃない。 人間社会で本当の本当に 必要なものっていったら 食べるものくらいでしょう?突き詰めれば。 |
矢透 |
「みんな畑を耕せ。ITなんかやるな」(笑) 何だか 今の世の中っていうのは、 自分のやっていることをわかりやすく 語ろうと思ったら、 「有用性」を語らなくちゃいけない ですよね。 しかも その「有用性」は、 「それでお金が稼げるかどうか」 という文脈にのっとって 語られなければいけない。 そうすると、何かを語ろうと思ったら、 本来はそういう文脈には乗らないものまで 乗せざるを得なくなる。 そういうときは・・・ |
伊田 |
沈黙しかない(笑) もし語るとしたら、 ものすごく回りくどい話になっちゃう。 |
矢透 |
だから、俺のやっていることは 「こういうことで、役に立つんだぞ」 っていう流れで語らなくちゃいけない 不自由さというか。 |
伊田 |
そういうことは、大学院生だけじゃなくて、 先生方も考えていると思います。 |
矢透 |
やっぱり、 労働という関わり方とは別の関わり方を 社会としているんだと思うけど その関わり方を表す言葉が、ない ですね。 |
伊田 |
僕もまだうまく言えませんね。 歴史学というのは 国策から始まった学問なんです。 戦後、国策に沿ってきたことへの 反省の動きが起こって 「新たな歴史学を!」 という声が起こったけれど そこではある種 マルクス主義に奉仕した面があった。 国のために、という学問から、 人民のために、という学問になろうと したんですね。 でも、人民のため、といったって それが幻想だったと気づくわけです。 70年代くらいから。 それから、 研究が「何のために」行われるのかが 見失われてしまったんですね。 老先生方は、今の研究には 一本筋が通っていないと嘆く。 でもそれは当然で、 大きな物語だと思っていたものが ことごとく否定されてきた現代では、 細かな研究にいくしかない。 何のための研究か、ということが 見失われつつあるけれど、でも 「自分のために」 というのではダメなんですね。 |
矢透 |
何のために、という視点は 研究をするときは 必要なんでしょうか? |
伊田 |
好きでやっているというのは みんなそうなんだけど、 なんらかの意義付けをしないと 存在意義を疑ってしまう ところがあって・・・ 趣味だったら、 新しい事実を発見して面白がるところで 止まってもいいけれど、 研究者としては面白がるだけではダメで 発見された事実から 何が見えてくるか、ということを 常に意識していたいですね。 |
矢透 |
僕はそういう視点を、 サービスと呼んでいますが サービス精神みたいなものが必要に なるのでしょうね。 |
伊田 |
この話と、 仕事というのはつながるのかな? |
矢透 |
いやいや、つながりますよ。 今日の話を聞いて、 社会との関わり方というのが、 いろいろあるんだって、思いました。 |
伊田 |
社会人のひとが苦しむストレスとは 別の悩みやストレスがある。 そこは、一緒ですよ(笑) |
次回、いよいよ最終回です!
第6回:生きるか、死ぬか、なんだ。
につづきます!