苦労は買ってでも


若いときの苦労は買ってでもしろ!
とよく言われる。

買うべき苦労とは何か?

死ぬ目を見るほどの貧乏だろうか。
あるいは、徹夜10連発か。
あるいは、上司に
「お前いっぺん死んでこい」
と、毎日言われつづけることか?
はたまた、会社都合で簡単に
リストラされてしまうことだろうか。

ちがう。
重要なのは苦労の内容ではない。

「苦労は買ってでもしろ!」
という言葉の重要な点は、

いま「苦労をする」ことは、
後々自分を助けてくれるに違いない、

という物語を内包していることだ。

*  *  *

延暦寺に伝わる修行で
「千日回峰行」
という、非常に厳しい修行がある。

9日間にわたり、食事も横になることも
許されなかったり、
一日数十キロの往復を100日続けたり。

ほとんど「あの世」に片足を突っ込んだ
狂気じみた世界だ。
その先に、聖人になる道が開かれる。

でも、それも物語の一つだ。
すさまじい苦痛には理由があり、目的がある
という物語だ。

その物語がなければ、宗教は駆動しない。

*  *  *

5年前に就職活動を始めたとき、
僕は就職なんかしたくなかった。
やりたいことが他にあったのだ。

恐れがあった。
進みたい道からいったん脇にそれて
就職したはいいが、
万が一、不意にとつぜんに
死んじまったらどうするんだ!

あああ、あのとき
下手に就職なんかしなきゃ良かった!
と、人生が理不尽にゲームオーバーを
告げてしまうかもしれないのが、
とてもこわかった。

でも、
「もしこのまま就職をせずにいて
自分は大丈夫だろうか??」

と考えたとき、
どう考えても答えはノーだった。
じゃあ就職するしかないじゃないか!
で、泣く泣く。

残念なことに、そもそもが、
僕はダメ人間なのである。

頭は悪いし、不器用だし、話はつまらない。
社交は得意な方ではない。
特別な才能もない。容姿もよくはない。
性格にも欠陥がある。
普通に生きていたら数人の友人を失った。

コンプレックスのかたまり。

そんな人間が、いささかなりとも
社会の中で自分の居場所を求めて
生きていこうとするときに、
痛みのない道なんかあるのか?

*  *  *

僕は今、自分が生きていくことが
あまりにもつらいもののような
気が、強くしている。

楽しいこともないことはないが
つらい思いが強く沈殿している。

・・・でも、
手応えもきちんとあるのだ。

この手応えには、意味があるのか?
俺は、このままで大丈夫なのか?

そういう気持ちで過ごしているのは
僕だけじゃない、はずだ。

「苦労は買ってでもしろ!」
という言葉は、物語を内包している。

今あなたが必死でもがいていることには
意味があって、今つかんでいる手応えは、
未来につながるものなんですよ。

という
「かなり信じてもいいレベル」
の物語を提示している。

それをチョイスするかしないかは、
あなた次第なのよ。

「苦労?買いですわ!どーんと買いますわ!」
と、ガツガツといけるような人生を送れたら
僕は幸せなんだろうな、と思うのだ。