コストをかける苦しみを
僕は今、二度目の転職を考えていて、
志望する会社に提出するレジュメを
書いていた。
書き終わったあとで、
あることに気がついて、愕然とした。
志望動機が
「今、ここに対する不満」
に終始していたのだ。
今の会社では○○ができない
先が見えない、学ぶことができない・・・。
読むに堪えない、つまらないレジュメが
できあがっていた。
「コストをかけてないな、俺は。」
と思い、恥ずかしくなった。
ここで言うコストとは、お金のことではなく
自分がやれる限りの努力をしたかどうか?
というような意味だ。
志望動機を考えるのに、
充分なコストをかけていない。
考えるのが面倒なことを避けて、
表面上の答えをチョロチョロと書いているだけだ。
面倒なことを避けて、無難な道を行くと
苦しい思いをしない代わりに
つまらない結果が待っている。
・・・
中学生のころ、僕は陸上部に所属しており
「1500メートル」という競技を走っていた。
400メートルのトラックを、三周半走る。
1500メートルを走るのは苦しい。
息は上がるし、足は重くなるし、
最後の周回は、僕はほとんど死んでいた。
足が速い方ではないから、
どんどん順位が落ちていくのがわかる。
みじめな気持ちにもなる。
走るたびに、いつも苦しい思いをした。
ある記録大会のときである。
あの苦しさを、今回はパスしよう、と思った。
今回くらい、力を抜いたって別にいい。
そして僕は、そのとおりにした。
結果はどうだったか。
苦しさは、いつもよりはなかった。
周囲を観察する余裕さえあったのだ。
当然、記録はボロボロだ。
普段だってボロボロなのだから、
ボロボロもいいところだ。
・・・ただ、大事なのは記録ではなかった。
「自分が、全力を出すことから逃げた」
という事実が、重くのしかかってきた。
「走れたのに、走らなかった。」
それは苦い記憶となって、
今に至るまで、ずっと、残り続けている。
・・・
コストをかけなかったことには
それ相応の結果しか返ってこない。
これは、仕事をしていても
日常生活を送っていても、
あらゆる場面で、そう思う。
では、コストをかければ、
すばらしい結果が得られるのか?
というと、まあ、そうとも限らない。
それでも。
大事なことは、結果ではないのだ。
もてる限りの全力を尽くすこと。
コストを十分にかけること。
その苦しみの過程を経てきたものと、
そうでないものとのあいだには、
おそらく、ずいぶんな違いがある。
少しばかりの「誇り」とか「自信」とか
そういうものが、のっかってくるか、どうか。
「コストをかける苦しみを選べ。」
目先の「楽」を選びそうなとき
このことをいつも、心がけていたい。