『ネアカ』の持つちから
だいたい80年代くらいに
『ネクラ』と『ネアカ』
という言葉があった。
ネクラというのは、根っから暗い奴、
という意味で、
「あいつ、ネクラで、やーねー」
というような使われかたをした。
暗いとか、話ができないとか、
何考えてるのかわからない、
という人を、コバカにしながらブベツする
言葉だったと思う。
ネアカ、はネクラの正反対である。
根っから明るい。ノーテンキ。
決してホメ言葉ではないんだろうけど、
ネクラほどのマイナスイメージはない。
僕には、『ネアカ』をひどく憎んでいた時期があった。
中学とか高校の時期には、
自分はダメな奴だ。顔も悪いし背も低い。
女の子ともうまくしゃべれない。運動もできない。
このままじゃとても、人並みに生きていけそうにない・・・
という落ち込み方を、青少年はよくする。
僕もその一人であり、ありふれた一人であった。
そういう奴は(僕のことだけれど)
どのようにアイデンティティを維持するかといえば
『ネアカ』をトコトン憎むことである。
つまり、明るく朗らかに、誰からも好かれ
女子などとも適度にナカヨクしながら、
スマートに世の中を渡っていける奴に、敵意を抱く。
情けない時代だ。
今だって、まだまだ劣等感からは自由になれてない。
だけれど、最近
『ネアカ』って、すごいことなんじゃないの!?
と、思い直してる自分がいる。
何か、ものを作るとき、
自分の暗い気持ちを、そのまま表に吐き出すのは、
実は、けっこう簡単だったりする。
深刻な顔をしてたりするんだけど、
けっこう気持ちイイはずだと思うのだ。
・・・ハッキリ言って、
そういう表現は自慰なんだ。
人を楽しませたり、力づけたり、心を動かしたり
そういう力を持っているのは、
実は『ネアカ』なんだと思う。
明るく元気で朗らかであること。
表現が外を向いていること。
何とか伝えようとしていること。
たとえ暗い内容の映画だって、
心動かされるような名作は、
『ネアカ』の要素に支えられているはずなんだ。
自分だけが楽しんでいちゃダメなんだ。
『ネアカ』を表現の根幹に置くためには
芸が要る。技術が要る。努力が要る。時間がかかる。
つまり、元手がかかっているんだな。
僕は
元手をかけて作り出されたものを、
支持したいし信用したい。
(こういうことを書くと批判されるんだけど)
明るく元気で朗らかに。
これを続けていくのって結構大変ですよな。
でもコツコツやり続けたら、
スゴイことになるだろうね。