死蔵のエッセイ(8)|軽い違和感の入れ物としての日記

季刊「日記」の創刊号を買った。「25人の一週間」と銘打って、様々な方の一週間の日記が記されている。「日記好き」としては涎が出るほどたまらない一冊だった。

昔から「日記」形式のものを読むのが好きだった。

内田百閒の「百鬼園日記」に、武田百合子の「富士日記」。
最初に目覚めたのは、中学二年生で読んだ椎名誠の映画作りの日々を記録した「フィルム旅芸人の記録」だった。自分が「映画のメイキング」と「日記」が好きだとということを気づかせてくれた本であった。

季刊「日記」には、実に25人の方々の一週間の日記が載っているけれども、当たり前ながらその「文体」はひとりひとりぜんぜん違う。

こうの史代さんの日記には、「この日記に登場する者ども」と絵が入っている。
武田砂鉄さんの日記はラジオでいつも話してくれる「こういうことが気になる」という視点に溢れている。
桜林直子さんの日記は、いつもポッドキャストで聴いているさくちゃんの日常が垣間見えるようで楽しい。

こんな感じでどの人の日記も面白いのだが、「はて」と考えたのが、書いた人が面白いから日記が面白いのか、日記が面白いのか?ということだった。まどろっこしいから端的に言うと、「俺の日記はつまらない」ということに打ちのめされたのであった。

あるとき思い立って「どうにもならない日記」を書き始めてもう3年近くになる。

あとから振り返って「過去、自分が何をしていたか」を思い出すことが一番の娯楽だ、という考えに基づき、「未来の自分に向けた娯楽の種を用意する」ことがこの日記のコンセプトだ。

日記を書くことは習慣化してきたのだが、平日に書くことといえば、◯時からミーティング、とか、あまりうまく喋れず、とか、カフェで作業、とかそういったものばかりになっている。

季刊「日記」で読む魅力的な日記たちと、手触りがあまりにも違う・・・。

日常にあまりに動きが少ないのかもしれない。確かに打ち合わせはしているが、ほとんどパソコンの前から動かない。たまにいくカフェもおなじみの場所で、そこでやることもほとんど仕事だ。

行動がワンパターンになっているし、平日に考えていることはほとんど仕事のことで、守秘義務があるから「こういうことを考えていて・・・と」書くわけにはいかない。

目にしたもの、浮かんだ違和感、そういうものをさっとすくい取り、記載する。日記の面白さの一つにはそうした「観察眼が拾い上げたものをぽっと置いておくメディア」という、エッセイ未満の気軽さがある。

例えば、今日僕が目にして心を惹かれたのは、

  • アサヒの発泡酒の缶を埼京線の駅のホームで開けているおじさん
  • 剣道の稽古の帰りらしい親子(子どもが小学生くらい)
  • 13時頃に自分と入れ替わりでサウナから帰っていく人(何のためにサウナに来たのかな?と想像力が広がった)

であった。なんで自分が気になったのか、は、それなりに理由があるのだが、たぶん書かないとわかってもらえないし、もしかしたら未来の自分からしても、わからなくなってしまうかもしれない。

たぶん、そういうものを、それぞれ「気になったもの」をポイポイと置いていき、「なんで気になったんだろ」と広げていくとようやく面白くなるのかもしれない。

-死蔵のエッセイ