自分の「わかりかた」をきちんと知っておくという話

2020/04/29

こんにちは。ヤトミックカフェ運営人の矢透泰文です。

現在、COVID-19の影響で、緊急事態宣言が出ているところです。わたしもリモートワークに移行し、約1ヶ月が経過しています。

この先、おそらくコロナ以前以降として、生き方とか、働き方とか、そういった価値観が少しずつ、しかし決定的に変わっていくという、予感がします。3.11のあとにも感じたような、「これ以前の価値観をみんな忘れてしまう」というような決定的な変化の只中に、私たちはおそらくいるのであろうと。

でも、その変化がなんだったのか、がわかるのはずっと後のことだろうと私は考えています。少なくとも「私がわかる」のは、もう少し先になるだろうと思います。

今回は「私がわかる」とはいったい何なのだろうということを、「生きづらさ」とつなげて、この時期の記録として、ラフスケッチしておこうと思います。

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身体のもどかしさにも似た説明できなさ

私は、頭が悪いのです。少なくとも、私が憧れるような頭の良さではない。私の憧れる頭の良さとは、論理的に、演繹的に、物事を考えられる人です。

簡単に言うと「普通に考えればこうなるだろう」ということを、自然に考え、そして実践できる人です。

私は、「自分が理解した」ことからしか、ものごとを考えることができません。当たり前、と思うかもしれませんが、私の場合は、頭でわかったではなく、身体でわかった、納得した、という状態・感覚にまで行かないと、ものごとがわかった、とならないのです。

「わかる」ことに身体が介在するややこしさは、ものごとの理解に、感情による「認知の歪み」が入ってくることから生じます。

  • 普通に考えればこうなるだろう(頭で考える)
  • でも「自分の場合はそうならないのではないか」(認知の歪み)
  • 結果的に、身体の納得に至らないので、納得ができない

という状態になります。

こういう、「普通に考えればわかることが、なぜあなたにわからないのか?」と問われるときの、説明できない息苦しさ。あくまで「感覚」だから、言葉にして説明ができない。

認知検査を受けた

私はこの「自分のバカさ加減」が、何かしらの発達障害スペクトラムにあるのだろうと考え、大学病院で心理検査(WAIS Ⅳ)を受けました。

その結果、私は、ほとんど他の人と比べると、得意なことと苦手なことの差が激しいことがわかりました。

視覚的な情報をもとにして考えることが苦手であるいっぽう、言語をもとにして考えることは、秀でています。そのバラツキ、ガタガタ具合が、見えてきました。

私の「わかりかた」のイメージ

いっぽうで、私の頭はある特定の「わかり方」をします。

その「わかり方」を人に説明する機会はほとんどないため、うまく言葉にはできないのですが、ある物事に対して「理解した」と思えるときには、「全体像」を「イメージ」や「感じ」で、掴んでいます。

その「掴み方」は人に伝えるのがすごく難しく、たぶんものすごく身体感覚に近いのです。感情に邪魔をされなければ、かなり深いところまで、速いスピードで理解することができます。

私は、この「自分のわかり方」を、武器として磨いてきたところがありますが、いっぽうで、演繹的に考えることができないことは、とても不利であるとも考えています。

その折り合いは、未だについていないし、この先、劇的に自分の「わかり方」が、変わるとも思いません。

身体で「わかる」

私はひどく不器用で、大抵のことはうまくできません。

手先も不器用だし(視覚情報も苦手なのでプラモデルが組み立てられない)、スポーツもできません(ボールを使ったスポーツでは必ずメガネを壊す)。道具を使うと必ず壊すし(ロードバイクに乗ってさんざ壊した)、ゲームをすると「人が理解できない負け方」をします。

だからこそ、というわけではありませんが、スタートがゼロに近い地点だから、何かを練習したときに「自分が特定の動作に慣れつつある」という感覚、動作が身体に蓄積している、ということが、わかります。

冷えた手が、お湯の中で少しずつ温まってほぐれていくように、その「上達の感覚」を、身体の経験値としてわかっているため、「練習すれば、今よりはなんとかなるだろう」という、自分の身体への信頼につながっています。

暗黙知について考えた2冊の本

年明けから、思うところあり、野中郁次郎先生の「知的機動力の本質」を読んでいました。

個人の「知」(Knowledge)を、組織の「知」に転換し、新たな価値観を創発しながら、どのように蓄積し、更新していくか、をアメリカ海兵隊をモデルに考察した、劇おもしろな本なのですが、その中で、スキルとは身体に刻まれた知である、という考え方が出てきて、そこについて自分は「すごくよく分かる」と思いました。

さらに「知的機動力の本質」内で紹介されていた、マイケル・ポランニー「暗黙知の次元」を読み、身体と知について、というか、身体化された知について、考えていたとき、ふっと思い出したのが

橋本治「わからないという方法」です。

私の理解は、すべてそういう身体性のもので、私は所詮、経験主義者でしかない。私の体質が、それを必然として要求するから、そのようになる。そして、そうなるまでにはけっこう長い時間がかかるから、それができるようになるまでの間、私は「ただの不器用」というサナギ状態で過ごすのである。

身体もしゃべる、体も考える。ただしかし、それを可能にするには、かなり時間がかかる。ただそれだけのことである。

(略)

私にとって、生きるという事は、自分の中に眠らせている「能力にも値しない能力」を、「能力」として復活させてやることでしかないのかもしれない。しかし、それがなかったら、生きていてもきっとおもしろくはなかろうと思うのである。

(「わからないという方法」)

この本は、身体に蓄積された「能力」を手がかりにしながら、それを徹底的に信頼することで、自分だけの方法論を作り上げていく、それを肯定していく本になります。数年前にもこの本を紹介した記憶があります。「知的機動力の本質」から、再びこの本が連想されてくるところに、自分の身体をいま再び信頼してみてもいいかなと、いう気になりました。

-世界の片隅から(よもやま話)