【第4回】

若者は目を見開いた。
「どうして」
女は変わらぬ口調で静かに答えた。

「迷い人を送った者は、そのまま里に残らなくてはなりません。
里に帰った後、人間が約束を破ってこちらのことを口にしないか
どうか、姿を消して見張り続けるのです。
こちらの安全を維持するためです。こちらの存在を知れば、
欲に駆られた人間が何をするか分かりませんから。」

「俺は絶対に口にしない。疑うのなら、見張り続ければいい。一生」

自分のそばにいればいい、と言おうとして言えなかった。
女が花のように微笑んだのだ。

「里の空気は我々には毒なのです。我々の寿命は人間より長い。
毒によって病んでも、たいていの場合その人間が死ぬまで
見張るのには足ります。
しかし、回復することはありません。かならず一人が
犠牲にならなくてはならないのです。
無駄な殺生は避けなくてはならない、たとえ人間のような
欲深い愚かな生き物であっても共に生きる道を探さなくては
ならない、というのが私たちの園の教えです。

その教えに従い、犠牲を出しても人間を送り返す、
一度は人間に機会を与える、という方針を採っているのです。

損傷を最小にするために、園を維持するのに重要な能力が
失われた者の中から案内人は選ばれます。

選ばれた者は崇高な精神として園の歴史に永遠に
刻まれることになります。今までずっとそうしてきたのです。」

一瞬口を閉ざし、それからはっきりと言った。

「しかし、私はそのつもりはありません。ここで確実に口止めをする。」
向けられた刃先を見つめながら、若者はなんとか逃れようとして
頭をめぐらした。

「しかし、ここで俺を殺したら、教えに背いたことになる。
どのみちあそこには帰れないじゃないか。里に行くしか
ないじゃないか。」

「里に多くの国があるように、こちらにも多くの園があります。
あそこはその中のひとつに過ぎません。私は他の園へ
行くつもりです。」

若者は追い詰められた気持ちで叫んだ。

「お前を育てた場所の大切な教えなのだろう?
今までずっとそうしてきたのだろう?じゃあ、なぜお前は
それに従わないんだ」

「大切な教えに背いても、恩を仇で返すことになっても、
あの場所を失うことになっても、それでも私は死にたくないのです。
どうしても生きていたいのです。」

どこかで聞いたような言葉を聞いて、若者は絶句した。

女はゆっくりと穏やかな目で微笑んだ。それは悲しんでいるような
楽しんでいるような不思議な顔だった。

「奇遇ですね、残念だ。」

女は目を伏せて一呼吸ほど間をおき、そして淀みなく切り払った。
それは飛びすさるのに十分な間だったので、若者は刀を浴びずに
すんだ。
飛びあがった足は、しかし地に着かなかった。
しまった、と思ったが遅かった。手で宙をつかみ足で空を切りながら、
若者は暗い森へ向かって崖をまっさかさまに落ちていった。
 


森の中をひとりの若者が歩いていた。
衣も体も泥と傷にまみれて、片足をひきずっている。
手にはすっかり色の変わってしまった飾り紐を握りしめていた。
それは中途でちぎれてその先を失っていた。
目は真っ赤に見開かれて、空中に据えてられていた。
両頬の眼の下の部分だけきれいに汚れが落ちていて、
もう涸れきってしまった涙をいまだに流しているように見せていた。

東の空が明るんでいる。
国ざかいを越えたことを若者はまだ知らない。


【了。】

『雑記』

作:岸本 余白

ものをつくる人たち