第2回
人
は
対象物から自分の望むものを見いだす。
中国に対する視線も同じことだ。
北京オリンピックが近づくにつれ、
中国に対する報道が過熱していった。
環境・著作権・食品・チベット
人権・情報規制・格差……etc。
それらが事実に基づいていることは間違いない。
しかし、その眼差しの根底はいつも同じ。
不可解・不気味・未成熟・混乱・弾圧……。
飽きもせず繰り返される
お決まりの認識パターン。
中国にそうあってほしいと願う負の投影。
そして、その認識パターンは、
僕の中にも確実に潜んでいる。
「中国社会が常に流動し、流動に合わせて
自己調節をしているのに対して、
中国を分析する発想法自体が
かえって固定化してしまっており、
調節能力に欠けている。
……
歴史の交差点に立っているわれわれは、果たして
歴史の流動とともに流動していけるのだろうか」
孫歌「歴史の交差点に立って」
(『歴史の交差点に立って』日本経済評論社、2008年)
より抜粋。
僕の内に潜む固定化された認識を、
如何に解体し、流動化させていくか。
その方法が、僕には、まだわからない。