嘲笑するものの連帯


さいきん、偶然にも
「2ちゃんねる」
という巨大掲示板を見た。

最近AMラジオを聴いているので、
番組のことをもっと調べようと
検索したら、それが出てきたのだ。

「2ちゃんねる」の
存在はもちろん知っていた。

日本最大の電子掲示板であり、
匿名での発言が可能な場であり、
ときに犯罪予告などの社会問題が
発生したり、
特有の文化が醸成されたり・・・。

何しろ、
ときの総理大臣(麻生太郎氏)さえ
「ときどき書き込みます」
とのたまっていたのだ。

でもどうしてなのか、
あの掲示板を読んだ後では
何だか無力感におそわれる。

自分でものをつくったり、
書いたりすることが、とてつもなく
馬鹿げたことに思えてくる。

あの場に漂っている空気は
ひとことで言うと「嘲笑」だろう。

単に人を馬鹿にする、見下す、
ということにとどまらず、
書き込んでいる人がそこにいない、
自分を棚に上げている、気がする。

木を見て森を語るようになっては
いけないと思うけれど、
何となく、そんな空気が感じられた。

それが気に食わないなら
見なければいいじゃないか。

という当たり前のこととして、
僕は「2ちゃんねる」を
今まであまり見てこなかった。

しかし、いちど読んでみると
あらがえない別の魅力もあった。

人気のタレントなど、一定の
ポピュラリティを獲得している人たちが、
掲示板の中でおとしめられているのを
見たときに

「ザマア見ろ」

という、気持ちよさを感じたことも
告白しなければいけないだろう。

「嘲笑するものの連帯」

ものを作ったり、発言している人たちを
横目に見ながら、
自分を棚に上げて、提示されたものを
あーだこーだというのは楽しい。

自分を被害者の立場において
「加害者」たる人間や事象に対して
ぐだぐだと愚痴を言うのは楽しい。

匿名性を利用して、
ふだんは面と向かって言えない言葉、
無意識を垂れ流すのは楽しい。

・・・

人間には、
ずるくて暗い楽しみがある。

「嘲笑するものの連帯」
というべきものがあると思う。

暗い楽しみを共有する人たちの
中にいるあいだは、
自分は一人ではないと感じられる。

人間はどういう形であれ、
他人と連帯すると楽しい。

でも、それにハマってしまうと
自分から表現を発信することが、
怖くてできなくなってしまう。

表現をすることは、
孤独になることと同義だ。

表現するということは、
不特定多数の人に対して

「ご自由に叩いてください。
無視されても、酷評されても
文句は言いません。言い訳もしません」

という材料を
自ら提出することだからだ。

それはあまりに当たり前のことで
ことさらに言うことではない。

けれど、あの場に対して
何かを言おうとすると、そうした
大げさな、自己正当化的な、
ヒステリックともいえる
言い方になってしまう。

それだけのことを
あの連帯は強要してくる気がする。

・・・
静かに立ち去るしかない。

批判もせず、あの場に向けて
自分を正当化することもせず、
ただ背を向けて、気にしないこと。

ああ困ったなあと思うのは、
そういうマイナスの対応でしか
「嘲笑するものの連帯」との
関わりを説明できないということだ。