映画『エビータ』は、何を描いたか?
音楽研究家、上田ひろし氏がばらまく、
知のエンターテインメント!

音楽から、政治も、男女関係も、マドンナ論(!)も
呑み込んだ、全4回のお楽しみ。


2:“タンゴ” を歌えない、アグスティン・マガルディ

「幾千もの星が輝く今宵/君を天国の扉にお連れしよう/愛が奏でるギターの調べが/永遠に鳴り響く//きらめく星々の明かりのなか/永遠の愛を育もう/幾千もの夜のうち今宵こそ/僕と飛び立とう」…。

映画『エビータ』のなかでタンゴ歌手アグスティン・マガルディがステージの持ち歌として歌う“タンゴ”の曲です。マガルディはもちろん実在した歌手で、エビータが首都ブエノスアイレスへ上京する際に手助けをしたのが彼だと言われています。
つまり、野心的な「売女」エビータの最初の餌食となった人物として、マガルディは描かれているわけです。

ここで面白いのは、マガルディの持ち歌とされているこの歌の中身です。実のところ、当時のタンゴの歌曲に、このような詞はまずあり得ないのです。
1917年にカルロス・ガルデルが創唱した「わが悲しみの夜」以来、タンゴの歌は、“無慈悲な女に捨てられた男”による極度に被害妄想的な独白というのがお定まりとなっており、「永遠の愛を育もう…」なんて希望に満ちたセリフは、タンゴ歌謡の実際とは甚だ似つかないものです。

こう書けば察しがつくかもしれませんが、タンゴの歌はきわめて男性本位で女性差別的でもあります。やくざ言葉で女性を罵るような面もあることは、残念ながら事実でしょう。
とはいえ、女にフられた可哀そうな自分を慰める独り言として聴くぶんには、たいそう人間味に満ちていて、男性にも女性にも共感できる余地が多分にあるかと思います。

ともかく、男性本位的な本場のタンゴの歌が映画(ミュージカル)『エビータ』の筋書きにとって不都合なのは確かでしょう。
エビータ本位のこの物語においては、マガルディは、あくまでエビータに利用されるだけの弱々しい男でなくてはなりません。
寝ているエビータの肩をこっそりいじっている気弱そうなジミー・ネイル(マガルディ役)のキャラクター、これが『エビータ』にとってのマガルディです。


アグスティン・マガルディ
『ブエノスアイレスのセンチメンタルな声』

そもそも、ロイド=ウェバー&ライスともあろうコンビが、まさかそこまでタンゴを理解せずにタンゴの曲を書いたとは思えません(映画のなかでマガルディを伴奏しているタンゴ楽団の演奏もなかなかの本格派でしょう?)。だから、マガルディの持ち歌をうわべだけの安っぽい恋の歌にしたのは、ちょっとした筋書き上の戦略だったのかなと思うわけです。

なお、マガルディの名誉のために付け加えておくと、彼は、カルロス・ガルデル、イグナシオ・コルシーニと並んで男性の3大歌手と称された、タンゴ歌謡黄金期の大スターでした。「囚人14号」「バガボンド」など、さまざまな哀しみを抱えた男たちを、その歌のなかで切々と演じました。
下町風のべらんめえ調で語り始めたかとおもえば、ふいに涙声のような高音を出し…、絶えず声を震わせながら生々しいポルタメント唱法で声を上下させるという、感傷的で劇的なマガルディ節に、当時のアルゼンチンの多くの人々が心を打たれたことでしょう。

(3: につづきます!)