映画『エビータ』は、何を描いたか?
音楽研究家、上田ひろし氏がばらまく、
知のエンターテインメント!

音楽から、政治も、男女関係も、マドンナ論(!)も
呑み込んだ、全4回のお楽しみ。


4:マドンナの神秘的な“真剣さ”

タンゴの歌は男性中心的だ、と言いましたが、それ自体はなにもタンゴに限ったことではなく、20世紀の多くのポピュラー音楽に共通して言えることでしょう。
たとえば昭和の日本の歌謡曲や演歌にしても、女性差別の根強さは火をみるより明らかです。 さて、そんな家父長主義的なポピュラー音楽の世界に一石を投じた人物が、まさに『エビータ』の主演を務めたマドンナさんでした。

マドンナが、「ミュージック・ビデオ(プロモーション・ビデオ)」という新たな媒体の可能性を開拓し、ポピュラー音楽における視覚イメージ戦略に革命をもたらしたというのは、よく言われることです。
マドンナは単に「歌」を売ったのではなく、身なりや仕草や生き様をまで総合した「キャラクター」を、消費者に提供したのでした (後に日本でこれと同様の売り出し方をしたのが安室奈美恵、浜崎あゆみ、らの路線かと思います)。

戦略的にエロティックなセックス・シンボルのような“ふり”をしたマドンナは、マリリン・モンローの再来などと安易に称されもしましたが、マドンナのエロティシズムを讃美したのが多くの場合むしろ女性であったという点が、モンローとは大いに異なります。
マドンナはむしろ、モンローに代表されるような男性社会における伝統的な女性像を積極的に戯画化して、そのバカバカしさを顕在化したと言えるでしょう。マドンナ・ルックの少女たちが、男に媚びない自立した女性としてマドンナを讃美したのは、このためです。

そんなマドンナがブレイクから10年あまりを経た38歳の時点で取り組んだ映画『エビータ』。
エビータもまた、“女らしさ”を求めてくる男たちを逆手にとり、彼らを踏み台にして“理想の自分”を獲得する、というキャラクターでした。マドンナが主演を熱望したというのももっともでしょう。
しかし、さすがは『エロティカ』(アルバム第6作)や『ベッドタイム・ストーリーズ』(第7作)後のマドンナ、初期のわかりやすいパロディ芸からは一線を画しているように思えるのです。

いちばん強く感じるのは、ペロンへの愛や民衆への愛を語る際のマドンナの演技の“真剣さ”です。
パーカー監督はこの映画で、エビータを「売女」の面のみに傾けることなく、「聖女」の面も意識して撮ったと言いますが、まさにそれに応えるべく、カサ・ロサーダ(大統領官邸)から5月広場の民衆に向かって想いを訴えるマドンナの演技は本当に「聖女」的です。
クライマックスのヒット曲「泣かないでアルゼンチン」の最後の文句 ―
「わたしを見てくれさえすればいいの/そうすれば、この言葉のすべてが真実だとわかります」
などを聞かされると、映画を観ているこちらまで、それを信用したくなる気さえするのです。

初期のミュージック・ビデオや映画では、伝統的な女性を戯画化してひたすら嘲笑うことを身上としていたマドンナですが、ここへ来て、ある種の写実的な演技(歌い方)にも長けてきた、といったところでしょうか。
成熟したマドンナの二刀流の歌唱表現が、エビータの性格を複数の色で彩っているのだと思います。おかげさまで、エバ・ペロン大統領夫人の評価をめぐる物議は、一向に絶えません…。

(これで、連載は終了です!ご愛読ありがとうございました!)