映画『エビータ』は、何を描いたか?
音楽研究家、上田ひろし氏がばらまく、
知のエンターテインメント!

音楽から、政治も、男女関係も、マドンナ論(!)も
呑み込んだ、全4回のお楽しみ。


3:ペロニズムは「民衆」の音楽に何をした?

ところで、タンゴの愛好家の人たちのあいだでは、
ペロン政権が アルゼンチンの民衆を元気づけ、その文化を保護し、すなわちタンゴの発展に貢献した、
というような言い方がしばしばされますが、これは本当でしょうか?

たしかに、ペロンが政治的権力を握っていた時代は、タンゴが大衆の人気を獲得し、音楽的にも大いに発展を遂げた時期にあたる、というのは疑いないでしょう。
さらに、ペロンがクーデターによって失脚した1955年以降、現実にタンゴの一般的な人気は衰退していきました (そこに取って代わるかのごとく、まさに1955年にパリ留学からブエノスアイレスへ戻ってきたのが、“芸術”志向のタンゴの開拓者 アストル・ピアソラでした)。

しかし、実のところ、ペロンの支持基盤となった「民衆」の正体とは、内陸部から港町ブエノスアイレスへ仕事を求めてやってきた移住労働者たちだったと思われます。
工業化を促進して伝統的な農牧業を半ばそっちのけにしたペロンの政策が、地方の農場から都市の工場へと人口を移動させたことは事実で、こうして内陸部からやって来た移住労働者たちが、ペロンの“保護”を受けたわけです。

さらに、文化的独自性を謳った「新しいアルゼンチン」は、
真の「アルゼンチンらしさ」とはヨーロッパ系移民の文化ではなく、内陸部のガウチョ(牧童)の文化のなかにある、と考えてもいました。なので、コスモポリタンな港町の文化を代表するタンゴは、ペロニズムと相容れるものでは決してなかったのです。

1950年、アルゼンチン音楽産業史上最大のヒット曲が誕生しました。その曲名は「カンビーチャの農場」。西部クージョ地方の農場育ちのフォルクローレ歌手アントニオ・トルモが歌った、ラスギード・ドブレという民俗的な舞曲の形式を持つ曲でした。


アントニオ・トルモ
『忘れじの歌曲集』

また、それにやや先立つ1945年、いちおうタンゴの作曲家が作った特大のヒット曲で「さらば草原よ」というものもありました。これはその後もタンゴ楽団のレパートリーとなって異彩を放ちつづけていますが、旋律も歌詞もタンゴとはかけ離れており、明らかに地方の民謡を彷彿させる曲でした。

そう、これらの現象は、地方出身の移住労働者たちの趣味が首都の音楽市場をも揺るがすようになってきたことの証で、これこそがペロニズムがポピュラー音楽に与えた影響なのでした。

人気歌手が続出して伴奏楽団の編曲や演奏力においても画期的な成長を遂げた40〜50年代のタンゴでしたが、その支持者には中流階級の人々が多くあったように思われます。地方出身者たちを「カベシータス・ネグラス(黒んぼアタマ)」と呼んでバカにした連中です。なかには「ペロン党行進曲」や「エバ夫人への歌」なんかを歌ってペロン&エビータのご機嫌を取ろうとした某有名タンゴ歌手もいましたが、これらのレコードを喜んで買ったのが一般のタンゴ・ファンであったかというと疑わしいです(そもそもタンゴ形式の曲ですらない)。
また、女優時代のエビータと映画撮影現場で口喧嘩をしたがために、結局アルゼンチンで活動できなくなってしまった、リベルタ・ラマルケという素晴らしい女性タンゴ歌手もいました…。

いかがですか?ペロニズムがタンゴを支えていたとは、ちょっと言いがたいでしょう?

(次回、最終回です!)